街を行く

私は長年療養所で隔離された生活をしてきたので、街を知らない。店にはいったことがない。だから、買い物をした経験もない。もちろんテレビを観て、知識としては知っている。しかし街に出て、自分で店に入って何かを買ったということは一度もない。したがって、そういう生活への憧れは強い。
とくに街をロマンチックに感じるようになったのは、一九三七(昭和一二)年に上京した頃、街頭に流れていた流行歌のせいだった。
青い背広で
心も軽く
街へあの娘と
行こうじゃないか
私は東京の街を一人で歩きながら、目当てもない「あの娘」と一緒に歩いているような錯覚に、脚がバネのように弾んでくるのだった。
私は小倉の街を車椅子を押してもらいながら、六十年前の青春を思い出していた。車椅子を押してくれているのは、昭ちゃんの二女康子ちゃん、三人の女の子の母親である。私の甘い思い出は、康子ちゃんとは関係なく、街の中から湧いてくるのだった。
街はロマンスの根源、人間の夢が無制限に湧くところであった。
しかし行き交う人びとは、夢見心地の私のことなど見もしないで、飛ぶように去って行く。街は非情なところでもあった。六十年前、「青い背広で 心も軽く」と、歌った青春は返すべくもなかったが、八十二歳の老人は、思い出を甦らせてくれた街に、また街の中を車椅子を押してくれている康子ちゃんに、感謝した。
これからも、街へ行こう。人びとの集まるところへ行こう。そこに社会がある。
私はしみじみと、そう思った。
「城とサクラ」はこちら
***********************
【著者紹介】
島 比呂志(しまひろし)
1918年香川県生まれ。1940年大陸科学院勤務。43年東京農 林専門学校(現東京農工大学)教員。48年国立ハンセン病療養所星塚敬愛園に入所。主な著書に、作品集『生きてあれば』(講談社、1957)、『奇妙な国』
(新教出版社、1980)、評論集『片居からの解放』(社会評論社、1984)、『らい予防法の改正を』(岩波書店、1991)など。99年星塚敬愛園を退所
、北九州市に転居、現在に至る。
矢辺 拓郎(やべたくろう)
1972年生まれ。共同通信写真部カメラマン。現在東京本社勤務。
本書の案内ページへ戻る