JINKEN BOOK's Special
「ハート」で挑戦、自己解放への道

「歩く水平社宣言」を自称する部落出身者・川口泰司さんが自らを熱く語ります。

(2001/12/25up)

★ 第5話〜第8話 ★

第8話 「初めての『全奨』Part1〜謎の10万円〜(2001/12/25up)

第7話 「主語のない『同和』教育」(2001/11/22up)

第6話 「肩にのしかかる1トンの重さ」(2001/09/10up)

第5話 「タブーの向こうに」(2001/08/16up)


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第8話 「初めての『全奨』Part1〜謎の10万円」

(2001/12/25up)

  
 誰が言い出した訳でもなく、高校生になってもボクたちは自然と、毎週「木曜学校」(註)に集まっていた。ボクらにとっては「ほっ、と落ち着く、Hot(熱い)な場所」だったから…。中学生が勉強している隣の部屋でボクたちは集まっていた。みんなバラバラの高校に通っていたが、高校での同和教育に対する不満や失望は同じだった(→第6話第7話参照)。
:「木曜学校」とはいわゆる「解放子ども会」「学習会」のこと)。

 そんな時、例のY先生が(福岡へ連れて行ってくれた先生→第2話参照)、
  「なんか、めずらしく悩んでるな。夏休みに『ゼンショウ』へ行ってみたらどうや。全国で頑張っている高校生と会ってこい!」
  「えっ…!全国に差別なくそうと頑張っている高校生がおるん?」

  それを聞いた瞬間、ボクの口はヨコへヨコへと広がった。高校生で部落差別をなくそうと取り組んでいる子がいるなんて知らなかったし、この先どうしようかと悩んでいたボクたちはきっと「全奨」(註)で何か得ることがあるかもしれないと思った。へへ、面白そうやな、メッチャ行きたいわー!…と思ったのはどうやらボクだけだった。みんなの反応はイマイチだった。
:「全奨」とは、「部落解放全国高校奨学生集会」の略。1998年から「部落解放全国高校生集会」に名称変更)

  そこで、Y先生はいつもの作戦へ切り替えた。 「今年の『全奨』は鳥取であるらしいぞ」 みんなの頬がピックと動いた。 「鳥取砂丘にはラクダがいるらしい。砂丘ではラクダに乗れるらしいぞ…」 この一言でみんなは、「全奨」に行く気満々になってしまった(またまたヨコシマな動機)。

  よっしゃ! みんなで鳥取行こうぜ!と盛り上がっていた。が、しかし、「全奨」へ行くお金がないことに気付いた。愛媛から鳥取へ行って3泊するとなると旅費で3万円はかかりそうだった。どこの家庭でもそうだろうが、3万円という旅費を簡単に出せる家庭なんてあまりない。ましてムラの親たちにとってはなおさらのことだった。さらに、そんな集会に行くことに反対する親まで出てきた。せっかくの機会なのにと半分あきらめかけていたボクたち…。

  2週間後の木曜学校…。Y先生がニコニコして
  「おい、やすし、先生な、昨日、パチンコで10万勝ったんや。これで旅費の半分だしたるわ。やけん、1万5千円をお前らでなんとかしろや!」
 この話を聞いたとき、みんは大喜び。なんとか親を説得して、自分の小遣い、お年玉の貯金とか使って旅費の1万5千円を確保した。

  そうして、ボクたちは修学旅行にでもいくかのようにルンルンになって鳥取へ向かった。
  「ラクダに何人のれるか、ためしてみようか?」
  「5人はいけるやろう。ほな、10人くらいで乗ろうか?」
  「鳥取っていうたら、カニが食えるかな?」
  「バカ、夏やから、カニは食えんやろ!」
  と、すっかり、本来の目的を忘れかけて…。

 鳥取の会場に到着してまず驚いた! ボクたちは7人で電車できているのに、会場の前にはたくさんの貸し切りバス。窓ガラスには「福岡県連」「大阪府連」「徳島県連」(各県における部落解放同盟組織体の名称)…、バスからゾロゾロ人がおりてくる。みんな黄色いゼッケンをつけて会場にドンドン入っていく。
  「おい、オレらはあのゼッケンとかないんか?」
  「みんなゼッケンつけとるのに、オレらだけないと、なんか目立つな」
  そうこう言いながら、ホールの扉をくぐった瞬間、目が点になった。2千人はいたであろうか。県民ホールが超満員!

  ボクたちはがく然とした。全国に、こ、ん、な、に、も、差別をなくそうと集う仲間がいるのか…! こんなにも部落の子がおるんか…! その光景を見ただけで、なんか、高校の「同和」教育でモヤモヤ悩んでいたことが頭から吹っ飛んでいった! そして、横から熱い視線を感じるなと思って、チラッと横をみたら、ボクのもろタイプのかわいい女の子と目があった(笑)。ボクの口は、またまた、ヨコへヨコへタテへタテへと広がっていった。  そして2日目の分科会で…! (以下、第9話に続く)  

…余談…
  帰りの電車で知ったことだが、旅費の半分は先生がパチンコで勝ったんじゃなかった。 残りの半分はみんなのカンパだった。
 「子どもらが、がんばって部落差別なくそうと集会いくんやったら、わしらのゲートボール整備の予算を使え!」
 とムラのおじいちゃんやおばあちゃんたち。
  「ほんま、千円で、少しやけどカンパするわ。」
  と学校の先生。ムラの親たち。
 子どもたちをなんとか「全奨」に行かせたい、というみんなの願いがいっぱいこめられたカンパだった。
  (こんなに簡単にカンパが集まったわけではなかったことは、今になれば、容易に想像がつく。その当時、表だって解放運動がなかったボクたちのムラ。行政施策はなんとかあったが、大きな声で、「反差別」「部落解放」と言えなかった地域。ムラの子に立場の自覚をさせることで四苦八苦している親。いろんな思いがあって「同和」教育なんかするな!という親や地域の人たちが多かったボクたちのムラで、これだけのカンパを集めてくれたこと。そんな人たちに一人ひとりカンパを募ってくれた先生たちの思い。今になって、あの時の先生たち、ムラの人たちの思いがズッシリとボクの胸に響く…。)

 



第7話 「主語のない『同和』教育」

(2001/11/22up)


  
 「キーン、コーン、カーンコーン、キーン、コーンカーンコーン…」。 ボクは教室を飛び出した。

  怒りと悔しさ、バクバクする鼓動を押さえきれず、校長室へ急いだ。ドアの前で何度もノックした。すると事務の人がでてきた。
  「なんですか?」
  「あの、ちょっと校長先生と話がしたいんですが」
  「アポとかとられましたか?」(アポなんかとるわけがない! ボクはこんな気持ちを校長先生に聞いてもらいたいんだから)
  「ボク、ここの生徒ですよ。アポがなくても校長先生と話していいじゃないですか!」
  そんなこんなで、事務の人とドアの前でやりとりしていると、 「いいよ、入ってきなさい」と奥から声がかかった。

  高校に入学して初めての校長室だった。
  「校長先生! ボク、さっき『同和』教育の授業を受けてきました。校長先生は、この学校の『同和』教育をどう思っているんですか?」
  「いや、私はね…、1965年に同対審答申がでて、同和問題の解決は国の責務であり、国民的課題で…、私は教育に携わっているものとして…」
  肩を振るわせ、爆発しそうな自分を精一杯、ギリギリに押し込めているボクを前にして、おきまり通りの台詞を語りはじめた…。
 
 「先生、そういうことを聞いているんじゃないんですよ! 今の、この学校の『同和』教育の現状についてどう思っているのか聞いているんです! 本当にこの学校から差別をなくしていこう、と思っているのかどうか聞いているんです!」
  「うーん、ちょっと待ってくれ。『同和』教育担当のものがいるから、いま呼んでみるよ」
  「だーかーら、違うんですって! あなた自身、校長先生の考えを聞いているんです。今日、高校で初めて『同和』教育の授業を受けました。ボク、その授業を受けていて、ものすごくしんどかったんです! 授業中ずっと、顔をあげられなかったんですよ! …自分が部落出身だということを言えなくさせる空気だったんですよ。一トンくらいの重たい空気に押しつぶされそうだったんですよ。その空気はボクにとっては刃物だったんです。痛かったんです。すごく痛かったんです! その場にいられなくなったんです!」
 
  必死に校長先生に自分の気持ちを伝えた。でも、校長先生は何も答えてはくれなかった…。

  放課後すぐに市役所に行った。市役所には市民の声を聞く、「目安箱」(意見箱)があり、ボクのその日の出来事、自分の思いをビッシリと書き込み投函した。

  そして、一週間が経ち、市の同和教育課から一本の電話があった。(うちのばあちゃんがその電話に出てビックリ! 「やっちゃん、また何か悪いことでもやったんか?」)
  「川口君ですか? 私は同和教育課の者ですけれど、一度会って話がしたいんですが…」
  この一本の電話が高校時代の人生を大きく変えていったとは当時のボクは気づいていなかった。

  どこまでも主語が抜けた同和教育。差別への怒り、不合理さを教えようと必死になって授業をする先生…。先生、お願いだから、「私は」という主語で部落問題を語ってよ! 自分の差別意識としっかり向き合おうよ! どれだけ本気なのか、その結果はボクたちが被っているんだから…。 (以下、第8話に続く)


 


第6話 「肩にのしかかる1トンの重さ」

(2001/09/10up)



  高校生になったボクはクラブや勉強に大忙しだった。そんな中でも、部落問題のことは頭から離れず、何らかの形で取り組んでいきたいと思っていた。

 そんなある日、高校に入学して初めての「同和」教育の授業があった。中学校での「同和」教育の授業は毎回新しい発見があったり、価値観を揺さぶられるような時間だった。自分の差別意識などを見つめ直すことが出来て楽しかった。ハッキリ言って、「同和」教育の授業が一番好きだった。だから、高校での「同和」教育の授業をすごく楽しみにしていた。

 しかし、授業が始まってボクはだんだん辛くなってきた。その授業内容は、小学校の時にボクが担任から聞いたような「貧困」「悲惨」「低位」な部落の歴史の話であり、差別の理不尽さや怒りを覚える内容ですらなかった。

 ボクの一番の関心事は、先生や周りの友人は部落のことをどう思っているのだろう、ということ。高校は中学と違って、地元のいろいろな中学校から生徒が集まっている。「同和」地区のない学校も多くある。そんな学校ではキチンとした「同和」教育を行っているのだろうか? 部落に対してどのように思っているのだろうか? もし、部落に対する偏見などを持っている人がいたらどうしよう、などと考えしまうのである。

  そんなボクのドキドキした心境とは裏腹に、指導してくれる先生といえば「私と部落問題」という大切な視点がスッポリと抜け落ちている。部落差別はどこか遠くで起こっていることといったような「タニンゴト」だけの時間が流れていく。「タテマエ」の話で終わり、みんなも「ジブンゴト」として受けとめることが出来なかった。授業を受けているみんなはだんだんと興味をなくし、寝ている子、次の授業の宿題をしている子もでてきた。

 授業が始まった頃の輝いていたボクの瞳はだんだんと下がり、最後には机の上の教材に目を落とすようになった。そして先生が一通り部落の起源などを説明し終わって、みんなに意見を求めても、挙手し発言する者は一人もいなかった。

 そんな状況の中で、ボクは周囲の目がすごく気になりはじめていた。部落問題に対して積極的な意見がないということは、みんな部落に対して否定的なイメージを持っているのではとボクには見えるのである。

 先生、ボクが部落出身だということを知っているの? もし知っていたらこんなタテマエの授業は早くやめて、先生は部落差別についてどう思っているのか話して欲しい! 「主語は私」で語って欲しい! こんな状況では先生すら信じることが出来ない。部落出身だということを言えなくなっていく!

 今まで中学校で学んできたことは何だったのか、ボクは「部落民」であることを恥じることなく、人間としての誇りを持って、胸を張って生きようと頑張ってきたではないか! 高校という所では、そのようなボクが簡単に崩されていった。何故なのか? ボクの被害者意識が強すぎるのか? 「同和」教育の授業は一番しんどい思いをしている生徒に焦点を当てて、その子が元気になっていくかどうか、一番しんどい思いをしている子が元気になれるクラスは全ての子が元気になれるクラス、それを一つのバロメーターとして授業をするんじゃないの!

  「同和」教育の授業で部落の子が下を向く授業とはいったい何なのか? ただ一つ言えることは、ボクの肩には見えない一トンの重さがのしかかり、その重さに押しつぶされそうだった…。

  「キーン、コーン、カーンコーン、キーン、コーンカーンコーン…」。 ボクは教室を飛び出した…!   (以下、第7話に続く)




第5話 「タブーの向こうに」

(2001/08/16up)



 「ばあちゃん・・・、ばあちゃんは部落差別を受けたことなかったん?」

 今から思えば、他にも言い方があっただろうと思ってしまう。でも、当時のボクには精一杯の言葉だった。「部落差別」、この一言を、ばあちゃんじいちゃんのいる前で語ることがどんなに重たい事だったか。タブーとされてきたこの言葉。部落差別なんかもうなくなってきているのだから、「寝た子を起こすな」という人がいる。ボクの住んでいた宇和島でもそんな意見はたくさんあった。でも、うちのばあちゃんたちは「寝た子を起こすな」という気持ちで部落問題を語らなかったのではない。語れなくさせるほど「寝た子を起こされ」てきたんだ!

 ただただ涙を流し、頬の涙を拭うばあちゃんに向かって、何度も何度も、ボクは言った。「ばあちゃん、ばあちゃん、差別を受けんかったんか・・・」と。そして2人の間に沈黙が流れた。

  「ばあちゃんたちは差別なんか受けたことない! 差別なんか受けんかった。ばあちゃんのじいちゃんの頃にあったけど、ばあちゃんは差別なんか受けたことがない」。

  何度聞いても、ばあちゃんはそうこたえるばかりだった。そう言い張るばあちゃんの顔は涙でクシャクシャだった。そんな姿をみているうちにボクは言葉にはならない、部落差別の重さを感じていた。

 そんなやりとりが続くなか、横になって寝ていたじいちゃんがひょっこり起きだし、タバコをふかしはじめた。ただ黙ってタバコをふかし2人のやりとりを聞いている。普段から無口なじいちゃんだった。じいちゃんにも同じように差別を受けたことはないのかと聞いた。じいちゃんの答えもばあちゃんと同じであった。ボクは悔しかった。なんで部落差別の話をしないんだ! なんでその話を避けようとするんだ!

 近所のじいちゃん、ばあちゃんから、識字で聞き取りをした。その時はみんなボクたちに話してくれたのに、なんで、なんで孫には語れないんだ! そんな腹立たしさと、孫だからこそ話さないんじゃなく話せないという思いを十分に感じながらも、ボクはひたすら話しつづけた。

 いろいろ話しているうちに、じいちゃんの生い立ちを聞けた。

 じいちゃんは、家がすごく貧しくて小学校にも行けなかった。そして、16歳の時に志願兵として軍隊に入った。 「自分が死ねば、国から恩給がもらえる。自分の親や兄弟のためにもじいちゃんは『赤紙』がくる前に自ら軍隊に入った」。何度も前線で戦ったこと。多くの仲間が死んでいったこと。いろいろな話をじいちゃんはしてくれた。

 そんな話の中、じいちゃんの生き方に学ばされたことがあった。

  学校に行っていないじいちゃんは、軍隊で何年も戦っていて、実力もつき、昇進したいと強く思うようになった。そして昇進試験がある。でも学校にほとんど行っていないじいちゃんは試験に出てくる文字が読めないし、書くことができない! あとから入隊してくる若い学歴のあるものたちにすぐに追い越される。

  そんな中、ある部落出身の上官と出会う。その上官はじいちゃんのことをすごく大事してくれた。夜、消灯になってから、じいちゃんを「呼び出す」。周りの人たちには「呼び出し」という形で、じいちゃんを呼ぶ。しかし、そこでは、じいちゃんは漢字の読み書きの勉強をする。戦時中だったために十分な文具がそろっていなかったが、国語辞典を貸してもらい、ボロボロの紙だったが上官がコッソリ用意してくれて、じいちゃんは必死になって勉強する。

 学校に行けなかったことを嘆き、愚痴を言っているのでなく、必死になって文字の読み書きを勉強した。毎晩、毎晩、消灯になってから上官の部屋へ行き、じいちゃんは辞書を丸暗記するほどに勉強した。そして試験に合格した。

 試験に合格し、昇進していくが、そこでまた悔しい思いをする。ある段階からは学校を出ていないということで、試験を受ける資格がなかったのである。どんなに自分が努力してもどうにもならなかったことだ。

  「勉強が嫌いで学校をサボっていたんやない! 生きていくのに精一杯やったけん、学校にいけんかったや!」。昨日のことのように、悔しそうにボクに語るじいちゃん。「自分の子どもにはその悔しさを二度とあじあわせたくない」。そんな思いのなか、オヤジを育てた。

 日頃、無口なじいちゃんの話はボクの身体の芯に響いてきた。

  じいちゃんたちが生きてきた時代と、ボクが生きている時代は大きく変わっている。差別によって貧困になり、教育を奪われた。でも、そんな状況に負けることなく、生きぬいてきた、文字を取り戻してきたじいちゃん。文字の読み書き、漢字を勉強したらからすごいと思ったんじゃない! どんなにしんどい状況でも、それに負けず、したたかに、強く生きてきたじいちゃん。その生き方を学び、受け継いでいける自分になりたい! そんな人間になりたい! そう思った。

 タブーに触れることは辛かった。しんどかった。でも、それ以上に多くのことを得ることができた。そしてなにより、じいちゃんとばあちゃんがすごく好きになった。本気で尊敬できるようになった。部落差別に触れること、それはばあちゃん、じいちゃん、そしてボクにとって荊の道を歩く事かもしれなかった。でも今は思う。その荊の道を歩きぬく力を得ることができたんだと・・・。  (以下、第6話に続く)




 

【川口泰司さん自己紹介 】

1978年生まれ。愛媛県宇和島市の被差別部落に生まれる。
小学6年生の時、「ブラック差別」と勘違いして立場を知る。中学時代、同和教育に本気で取り組む教師、同和教育との出会いから、解放運動に取り組むようになる。

趣味:サーフィン(海に行く途中、車でおもろい講師のテープを聞き感動している)、読書、メール
特技:部落問題を熱く語ること(放っておくと一日中語っています)
好きな言葉:「解放運動はフットワーク→ネットワーク→ライフワーク」「願生る(がんばる)」
 



 

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