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障害者自立支援法にみる小泉構造改革の非情
〈『部落解放』2005年12月号〉
通常国会で廃案になった障害者自立支援法案が特別国会で成立してしまった。
障害者自立支援法は、格差を拡大していく今の「非情な政治」の象徴のように思う。
だれだって障害をもつことはありうるし、障害をもった子どもは必ず生まれてくる。だからこそ社会でどう支えていくかが重要なのに、それが「自己責任」というように転換していっている。
障害者自立支援法は、一言でいえば、応能負担を応益負担へ転換するものであり、原則一割の定率負担制度を導入するものである。
障害の重い人ほど、さまざまなケアが必要である。だから、応益負担、一割負担せよとなれば、多額のお金がかかる。しかし、他方、障害の重い人ほど就労が困難だから、収入は少ない。
つまり、より収入の少ない人により多くの負担をせまるという無理な設計となっている。
もちろん、減免措置や上限の定めはある。
しかし、「応益負担」という基本原理には、変わりはない。
減免の対象となるためには、預貯金や収入をきちんと示さなければならない。
いままで障害者福祉(介護、就労支援、障害児に対するサービス事業など)と公費負担医療は、社会福祉の扶助原理にもとづいて、利用者の収入に応じた応能負担を原則として行われてきた。それを「応益負担」にしてしまうと、憲法二五条がまさに保障している健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を壊してしまう。
トイレに行くのが「益」だろうか。ごはんを食べるのが「益」だろうか。作業所に行くのが「益」だろうか。障害のある子どもを病院や学校に通わせることが「益」だろうか。
お金のない人は、外出しなくなったり、毎日の生活を抑制することになってしまう。障害のある人たちは、ぜいたくをしたいと言っているわけではない。社会のなかで生きていきたいのだ。それをさまたげてしまうものになってしまう。
そして、「命」があやぶまれることすらありうる。
私は、障害のある人たち、一万一千人の人たちが、国会に請願に来た日のことを忘れられない。車いすで来ること自体、命がけの人もいるだろうに。みんな思いつめた顔をしていた。
障害のある人たちをここまで抗議にこさせる政治って何だろうと思った。
ところで、厚生労働省の担当者の答弁に私はショックを受けつづけた。「福祉の転換点」ということを思った。
担当者は、「応益負担」への批判に対して、サービスは買うものだと、みんな買う主体になるべきだと言った。「買えない」人たちに対して、「買え」ということほど残酷なことがあるだろうか。
「日常的に必須のことをお金がなければ買えない。問題じゃないですか」と聞いたら、「一般に、私どももそうですが、日常生活で必須なこと、電気やガスや水道や交通や、そういったことについて、生活のもろもろの費用については購入せざるをえない」と答弁した。
でも、障害のある人たちが生きていくことについてケアが必要なことと、一般の人が電気やガスや水道の費用を払うということは違う。
また、別の担当者は、「原則一割のご負担をお願いするということは、逆にいえば九割のご負担を税金といたしまして国民の皆様からいただくということでございます」と答えた。
社会でどう支えていくかではなく、「本来は十割負担すべきなのだが、九割は税金で負担してやっているのだから、一割負担は当然だ」という意味である。しかし、ここには、一割負担になったら生きていけない、「障害者は、家に引っ込んで黙っとれということなのか」という障害者の人たちの不安や悲鳴への配慮はまったくない。
この社会のなかで、ハンディキャップをもっている人がせめてスタートラインにつけるよう後押しをすることこそ、政治のやるべきことである。スタートラインにつくずーっと以前に足を引っ張ったら、スタートラインにすらつけやしない。格差を拡大させながら、「自己責任」にしていく「福祉の転換」は、小泉構造改革の大きな象徴の一つである。
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