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◆戦争は「差別」を再生産する◆
Jeffrey Paul Bayliss
ジェフリー・ポール・ベイリス
米軍が攻撃を開始しようとしたと同時に、突然の国際電話で、解放出版社から「日本の差別問題を研究しているアメリカ人の研究者として、今回の対イラク戦について自分の考えていることを原稿化してほしい」との依頼を受けた。
戦争は恐ろしいペースで進み、それに伴って、人びとのあいだには義憤と憂鬱(ゆううつ)の間に揺れる心境が一層強くなりつつある。この戦争でつくづく思ったことを述べてみたいと思う。
私はこのブッシュ政権による侵略戦争に強く反対している。政府が述べる戦争の動機にはまったく納得していない。冷戦時代以来、そもそもアメリカの中東における帝国主義的な政策こそが、フセインの支配を助長してきたのだ。そして何よりもイラク人民に夥(おびただ)しい死者が出るであろうことを考えると、ブッシュ政権の横柄、偽善と不道徳に反対せざるを得ないのである。
アメリカでこの意見を主張しても、私は決して孤立してはいない。米国の世論調査によると、戦争の支持派は反戦派より2対1で強いものの、反戦派の活動はよく組織されているし、強い意志と団結力を発揮している。それぞれの団体は多くの市民の良心に呼びかけており、ベトナム戦争に対する米国内の反戦運動よりも大きく発展してきつつある。
にしても、なぜ多くの市民が反対しないのか。どういう心境でバグダッドに対する凄まじい空爆の映像を見ているのか。私はここに、マスコミの世論形成における役割、同化を強いる国民国家の心理的作用、そしてこれらを通して再生産されている「差別」という問題点が潜んでいると考える。
ほとんどのアメリカ人は別に好戦的ではない。フセイン大統領を憎んでも、一般のイラク市民を殺したがってはいない。だが、マスコミがここで重大な役割を果たしている。彼らは高性能ミサイルや爆弾で可能になったいわゆる「サージカル・ストライク」(正確な攻撃)によって民間人の犠牲者はほとんど出ない、と繰り返している。フセイン政権が、かつて自国民に対して犯した暴虐な行為を述べ、米軍をイラク人民の「解放軍」と名付けることによって、この戦争は無防備の人びとを殺さない、イラク人民の自由と人権のための戦争であるように宣伝しているのだ。
これはブッシュ政権にとって最も望ましい解釈である。そして、「石油のための戦争」ではなく、「正義のための戦争」である、という理解を植え付けようとしている。
「正義のための戦争」であるならば、それに反対する者は「勘違いしている」、それとも「非国民」である、と見なされる懼(おそ)れがある。マスコミは、まだこういう見解を全面的には出していないが、報道にそのことが暗示されている例はあるし、政府の関係者や評論家が「デモをやるよりも、国を守ってくれている兵隊たちを支援する方がアメリカ人に相応しい振る舞いだ」というような意見を洩らしている。
それは単純な見方であるにも拘わらず、一般市民の間では意外な説得力を持っている。反戦デモで行進すると、ブッシュ政権を支持している傍観者たちから、
「兵隊はお前らの発言の自由も守っているぞ」
「フセインはアホな反戦論者が大好き」
「アメリカが嫌なら、フランスやイラクへ行ってくれ」
というヤジが飛んでくる。このような国家と国民の関係をめぐる幼稚な理解が強くなればなるほど、健全な民主主義そのものを脅かすことにも成り得るのだろう。
政府の支持者が「愛国心」に満ちた自分の見解と信念が公認されていると考えるようになれば、それが民族差別をあおる可能性がある。戦時下においては、「敵国」の国民と同じ民族や人種が危険視され、その性質は「狡猾」「残酷」と描写され、その人間性自体が否定されてしまうのである。
アメリカのマスコミ報道、そして社会全体に、中東文化に対する偏見が依然として残っており、9・11のテロ事件以来、その傾向はさらに強くなった。今回の戦争が長引いたり、復讐(ふくしゅう)をもくろむテロ事件が起こったりすると、アメリカに住むムスリムの人びとは、国籍を問わず、酷い迫害を受ける可能性は高い。
その時、政府はその人びとの人権を守る側に立つか、それとも却って蹂躙(じゅうりん)する側に立つのか。非常に残念ながら事態は楽観を許す状態ではない。
(以上、2003年3月24日記)
※ ジェフリー・ポール・ベイリス:
1965年生まれ。アメリカ・マサチューセッツ州在住。
専攻は日本史(日本の差別問題)。現在ハーバード大学大学院博士課程在籍。
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