|
◆ 沖縄イチャルパ(供養祭)
◆
〈『部落解放』2006年2月号掲載〉
竹内 渉
六十年前、住民の命は、米軍からも、友軍と信じた日本軍からも奪われていったという。糸満市真栄平地区も例外ではなく、当時十三歳の仲吉喜行氏は、「死ぬのは怖くなかった。なぜなら、何人もの人が命を落としているのを目の前で毎日見ていたから」と言う。こんな状況の中、「普通の日本兵とは違う」と感じた弟子豊治氏と知り合った。弟子氏はアイヌであるからこそ、日本兵である前にアイヌとして沖縄の人に接した。それはあたかも兄弟姉妹に接するがごとくであったという。
弟子氏は、夜、暗闇に紛れてこっそりと陣地から仲吉家を訪れよくご飯をごちそうになったという。また、喜行少年は、兵士の背中におぶさって、土曜日には陣地で行われた兵士慰問映画を見せてもらったという。この時期稀な、兵士と地元民の交流があった。終戦後、捕虜となった弟子氏は「捕虜はハワイに送られる」と聞き、脱走し、喜行少年の協力を得てなんとか北海道に帰り着くことができた。
地区内には日本兵、地元住民、そして米兵のものとも区別のつかない夥しい数の遺骨があり、とりあえず壕に集めていた。地区住民九百余人のうち六百七十七人もの戦死者を出し、壊滅的な打撃を受けた真栄平地区では、生きるのに精一杯であったが、このまま放置できないと部落総会で決議し、浄財を集め、一九五三年に仮設的な共同納骨堂を建立し、六六年、恒久的なものに建て替えた。
アイヌ民芸品販売で沖縄を訪れた際に真栄平を訪ねた弟子氏一行は、寄付を申し出て、その納骨堂の上に慰霊塔を建立した。北から来た兵士も、南の地元住民も犠牲となっているということから「南北の塔」と刻み、弟子氏の所属していたのが「山部隊」と呼ばれていたことから、山の仲間という意味で「キムンウタリの塔」と裏に刻み、横には「真栄平地区住民」と刻んだ。
沖縄戦でのアイヌ兵士の戦死者数は判然としないが、北海道ウタリ協会が調査し把握できたのは、四十三人である。同協会は、上述の交流を機縁に一九八一年からおおむね五年ごとに南北の塔前で、アイヌプリ(アイヌ民族の伝統作法)でイチャルパ(供養祭)を行っており、今回(〇五年十一月二十七日/団長・加藤忠理事長)で六回を数えている。遺族や祭司等十三人での訪問であったが、毎回、真栄平区自治会、同老人会の方々には、準備の段階から後かたづけまで多大なご協力をいただいている。今回も、老人会を中心に二十人ほどの地区の方々が参加された。また、前回も参加したアイヌモシリとウルマを結ぶ会や平和ガイドからも参加があった。
祭司と副祭司が、北海道静内町で柳の木から製作したイナウ(木幣)等でヌササン(祭壇)を設え、仲吉氏が沖縄島北部で調達してきた角材で拵えたイヌンペ(炉縁)に火をたき、まずは、アペフチカムイ(火の神)にアイヌ語で語りかける。アペフチカムイは、アイヌイタク(人間の言葉)をカムイイタク(神様の言葉)に通訳して、神々に人間の祈りを届けてくれるからだ。
最後に、遺族や地元の方がそれぞれの戦死した先祖に一本ずつのイナウを捧げた。
夜は、南風原町立南風原文化センターが準備した交流会にお招きいただいた。オリオンビールや泡盛でのどを潤しつつ、アイヌ側からウポポ(歌)などが、地元から琉舞「かなの会」により琉球舞踊の披露があり、盛りだくさんの交流会となった。参加者一同、心からの供養が出来、そして沖縄の温かい心にふれ続けた感動の供養の旅であった。
十七世紀以降の共通する歴史を有し、状況は異なるが過酷な現実という共通点を持ち、対ヤマト(≒和人≒日本人)との域内の人口比が一%と九九%とまったく相反するアイヌとウチナンチュ(沖縄人)の交流のひろがりを願いつつ、夏の沖縄から冬の北海道に戻った。
(たけうち・わたる/社団法人 北海道ウタリ協会)
社団法人 北海道ウタリ協会 http://www.ainu-assn.or.jp/
|