コラム・水平線

月刊誌『部落解放』の巻頭コラム「水平線」を著者のご了解を得て、転載いたします。

(2007/06/27up)




◆ ハンセン病を身近に

〈『部落解放』2006年10月号掲載〉

前利 潔

 今年三月、私が勤務する知名町役場の行政書類(町立保育所入所申込書に添付する診断書)に、「らい」という項目が残されていたことがあきらかになった。「らい予防法」が廃止されたのは十年前(一九九六年)のことである。
 全国ハンセン病遺族会の赤塚興一会長(奄美市在住)を講師に招き、自治労主催の学習会を開いた。赤塚さんは「らい」という言葉は元患者、遺族にとって「身震いする言葉」であると訴えた。ハンセン病について理解していたつもりであったが、それを身近な問題として考えていなかったことに気づかされた。赤塚さんから学んだことを、私自身の体験、そして奄美諸島の歴史の中に位置づけて考えてみたい。
 赤塚さんが小学校三年(一九四七年)のある日、父親が警察官に「拉致」(赤塚さんの言葉)され、奄美和光園に強制隔離された。それまで毎日のように遊んでいた友達が、赤塚さんと遊ばなくなったという。高校を卒業したあと東京に出た赤塚さんは二度と島に帰るつもりはなかったが、偶然観た映画「ベン・ハー」に、ハンセン病にかかった母と妹を探しに行く主人公の姿があった。赤塚さんが島に帰る決意をしたきっかけである。
 小笠原登と光田健輔という二人の医師は、ハンセン病の歴史の中で対極的な位置にある。小笠原は隔離政策は必要ないと主張し、光田は隔離政策の必要性を強硬に主張した医師であった。光田の主張がらい学会の主流派を形成し、強制隔離という国策の理論的な支柱となった。小笠原は一九四一年のらい学会で糾弾され、追放された。それでも信念をまげなかった小笠原だが、晩年(一九五七〜一九六六)は奄美和光園に赴任していた。
 強制隔離政策の影響は、沖永良部島の島びとの意識にも深く浸透していたようである。沖永良部出身の太宰治賞作家・一色次郎の短編「風葬」「孤島」に“フジキ山”“フジキ穴”という言葉が登場する。一色次郎は小学校のとき(一九二四年頃)、“フジキ穴”といわれる洞窟にハンセン病患者の家族(母と子)が捨てられているのを見た。その母と子はその洞窟で餓死を待つだけであった。私(一九六〇年生まれ)が子どもの時代も、“フジキ山”という言葉は「ハンセン病患者が捨てられた場所」という意味で使われていた。
 沖永良部郷土研究会の先田光演会長によると「古い時代、ハンセン病というのは、いつ自分たちがそういう境遇になってもおかしくないと思われていた。だから患者を丁寧に取り扱っていた」という。旧「らい予防法」制定(一九〇七年)以降、国が強制的に進めていった隔離政策が島びとの意識の中にも浸透し、一色次郎が見たような非人間的な扱いを生み出すようになったのではないかと思われる。
 光田医師が強制隔離とともに推し進めたのが断種、堕胎であった。しかし、奄美和光園では百人前後の子どもが生まれている。全国の他の施設には例のないことであった。それはカトリック教会のパトリック神父の力が大きい。神父はその教義から断種や堕胎は認められないと園側を説得し、生まれた子どもは「天使園」という乳児院で、年長者は「白百合寮」という児童施設で育てた。
 近代の奄美大島はカトリックと深くかかわっている。現在、奄美大島の人口の五%がカトリック信者だといわれている。明治半ばになっても、奄美の島々は鹿児島(薩摩)による政治的、経済的収奪から逃れることはできなかった。当時の奄美大島の若き指導者たちは、カトリックに解放の理念をもとめた。最初のフランス人神父が奄美大島の地を踏んだのは、一八九一年のことである。一九二四年、カトリック側が地元の要望に応えるかたちで名瀬にミッションスクール大島高等女学校を開校。しかし、同じ頃、カトリック排撃の動きも出始めていた。一九二三年には、奄美大島南部の古仁屋に陸軍の要塞司令部が開設されていた。軍部は大島高女に対する警戒心をかくさなかった。
 カトリック排撃は、大島高女が「教育勅語を奉読しない」とか、帰化したカナダ人神父(校長)が「スパイ行為」をはたらいたなどと地元新聞があおりたてることによって、住民側の運動として発展していった。昭和天皇の来島(一九二七年)を契機にして、排撃運動はさらにエスカレートしていく。一九三四年三月、大島高女は廃校に追い込まれた。
 太平洋戦争に突入するまでの数年間は、排撃運動も苛烈だった。青年団が先頭になって、信者宅へ入りこみ、十字架や祈とう書などを没収し、「転宗」を強要。さらには教会への襲撃、地元警防団による「防空演習」の名を借りた信者宅への一斉放水など、すさまじい排撃運動が行われた。その結果、多くの信者たちが形式上は「転宗届」を出したが、家の中ではひそかに十字架をにぎりしめながら、祈りつづけていたという。
 奄美和光園は一九四三年に開設したが、建物の工事が始まるまで名瀬住民の猛烈な反対運動があった。カトリック排撃運動ともだぶってくる。また、現在の政治状況とも無縁ではないように思われる。ハンセン病を遠ざけるのではなく、身近な問題として、歴史の中に、政治の中に、そして生活の中に位置づけて考えていきたい。
(まえとし・きよし/知名町役場職員)

知名町
http://www.town.china.kagoshima.jp/


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