コラム・水平線

月刊誌『部落解放』の巻頭コラム「水平線」を著者のご了解を得て、転載いたします。

(2007/08/23up)




◆ 至福のエーを求めて

〈『部落解放』2007年8月号掲載〉

中上 紀

 夏が近づいている。これを書いているのは六月で、しかも梅雨の時期であるはずなのだが、窓の外は見るからに炎天下、軽く三〇度はありそうだ。どうやら、今年は猛暑になるらしい。私は夏が迫ると妙に精神が高揚してくるたちで、気温が上昇するにつれ、気持ちが沸き立ち、居ても立っても居られないような感触が、ぐるぐると渦を巻きはじめるのだが、あまりにも暑いと頭がぼうっとし、何をやる気にもなれなくなる。エアコンをつけても涼しいのは表面だけで、地に籠もる熱がじわじわとどこかから伝わり、そのうち蒸されたようになってくる。目薬をさしたりシャワーを浴びても、しばらくするとまた悶々としはじめる。そのうち、これではどうしようもないと諦め、ふて寝をしてしまう。そもそも、東京の家に籠もっている限り、出口が見えることはない。これまで出かけた旅の多くが、六月の今の時期であるのは、おそらくそのせいだ。
 旅はたいがいアジア圏、それも東南アジアが圧倒的に多い。中でもビルマ(ミャンマー)には学生時代から何度も通っている。暑い国だが、私が訪れる雨期は、さほど暑さを感じない。もっとも、気温自体は日本の七、八月ぐらいと、かなり高い。だが、ビルマに行くと、私の場合、なぜか暑いという観念が奇妙な変化を帯びてくる。
 ビルマの雨期は、日本の梅雨から秋口ぐらいまでの数カ月であるが、とにかく日に何回も、呆気に取られるほどの勢いで雨が降る。町でスコールに見舞われ、慌てて避難したどこかの店先に立ち往生となったこともしばしばあるし、畑ばかりの田舎道を歩いていて急に降られ、遮るものが何もなくて、下着までびっしょりになったこともある。しかし、ビルマの雨は、どこか心地よい。吹き出す汗と一緒に、心身に溜まった毒素のようなものが、雨に洗い流される気がする。文字通り心も身体もまっさらになったあとは、照りつけてくるかあっとした日差しも、かえってすがすがしく感じてしまうのである。
 ビルマでは、暑さのことをプー、涼しさ、冷たさのことを、エーと言う。エーは時に、心地よさ、平和さ、のどかさを意味する表現としても使用される。つまり涼しさは、ビルマの人々にとっては理想の状態なのだ。暑い日の一杯の水や、木陰が、何よりも素晴らしいということを、彼らは身にしみて知っている。だからこそ、その生活の中になるたけエーを求めようと、古来より生み出されてきたのであろう独特の文化がある。
 たとえば、田舎の方へ行くと、歩いている人の渇きを癒すための水壺が、道の脇に設置されている光景に出会う。また、人の家を訪問すると、手足を洗うための水のたっぷり入った洗面器を出されることがある。汚れを落とす目的というより、どうぞまずは涼しくおなりくださいという意味の、ある種のもてなしであろう。また、女性や子どもが「タナカ」と呼ばれる木の粉を水で溶いたものを顔や腕に塗っているのもよく見かける。タナカ化粧は、日焼け止め効果とともに、皮膚に清涼感をもたらすので、ビルマ女性たちに昔から愛用されている。清涼感といえば、他に「コオン」という嗜好品がある。これはタバコの葉に、キンマの実や石灰や香料などが包まれたいわば噛み煙草のようなもので、清涼感のほかに、虫歯の予防、虫下しなど、さまざまな効能があるとして、男性がよく噛んでいる。さらに、早朝や夕方働き、日差しの強い日中は活動しないとか、暑い外から帰っても、温度差による心臓マヒを防ぐため、すぐにシャワーを浴びないなどといった、エーのためのいろいろな生活の知恵が活用されている。
 エーはビルマの人々にとって、いわば極楽に通じる至福の状態といっても過言ではない。一年でいちばん気温の上がる暑期には、ティンジャン、もしくはダジャンと呼ばれる水かけ祭りが盛大に行われる。ビルマの他に、タイや雲南省南部、ラオスでも同様の祭りがあるが、これは上座部仏教圏に暮らす人々にとっての正月にあたる。この祭りはいまでは、町を挙げてホースやバケツの水を行き交う人々にかけあう大イベントとなっているが、もともとは清浄なる水を僧侶たちに捧げる儀式だった。水をかけ、かけられ、一年間の汚れを洗い清めながら、人々は新たなる年の平和と繁栄を祈る。これぞ究極のエーである。ビルマではエーという音を子どもの名前に入れることがよくあるが、子々孫々まで続くエーへの願いがそこに見られる。
 今年の雨期は旅に出そびれた私であるが、私なりのエーを求めて、試行錯誤してみようと思う。子々孫々までのエーとはいかなくとも、せめて猛暑を言い訳に怠惰な生活を送ることだけはやめたいものだ。

(なかがみ・のり/作家)


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