コラム・水平線

月刊誌『部落解放』の巻頭コラム「水平線」を著者のご了解を得て、転載いたします。

(2010/9/16up)




◆ コリアン・アイデンティティ

〈『部落解放』2010年9月号掲載〉

慎 武宏

 世界中を熱狂させたサッカーW杯。日本でも岡田ジャパンの大躍進に大いに沸いたが、今回は朝鮮総聯系の在日コリアン社会も大いに盛り上がった。
 それも当然だ。なにしろ北朝鮮が四四年ぶりにW杯出場を果たしたのだ。まして今大会では、鄭大世や安英学など朝鮮学校で育ったJリーガーたちが祖国の代表としてW杯のピッチに立ったのである。全国に六五校ある朝鮮学校や各地域のコミュニティでは、北朝鮮代表を応援する大規模な観戦行事も行なわれた。
 私もそのひとつの行事に顔を出したが、済州島出身の在日一世の老人も「ベスト8に進出した四四年前の六六年大会のときはテレビ中継がなかったので、地域に住む同胞たちが集まってラジオの平壌放送を聴いて祖国の活躍に沸いた。生きている間に、まさかあの興奮をまた味わえるとはねぇ」と、喜びと興奮を隠せないでいるようだった。
 もっとも北朝鮮四四年ぶりのW杯挑戦は三戦全敗に終わった。ブラジル、ポルトガル、コートジボワールに一度も勝てず、ポルトガルには七失点を喫する惨敗も味わった。
 それでも若い世代の中では「大会を心から楽しんだ」という声が多い。「負けてばかりだったけど、自信と勇気をもらった」と明るい笑顔で語る学生たちもいた。
 彼らがそこまで語るのにはワケがあると思う。朝鮮総聯系の在日コリアンはこれまで、日本や韓国の人々がW杯に熱狂する姿をどこか羨ましく眺めている部分があった。彼らにとってW杯は、“他人のお祭”であって、自分たちの“祝祭”ではなかったのだ。それが今回は鄭大世や安英学ら在日選手も出場したこともあって、「自分たちの祝祭」になったのだろう。朝鮮学校で教師をしている私の同級生も言っていた。
 「朝鮮学校に通う子どもたちは鄭大世や安英学など自分たちと同じ境遇にある同胞の選手たちが、ブラジルのカカ、ポルトガルのクリスティアーノ・ロナウド、コートジボワールのドログバなど世界の人気スターたちと堂々と対決する姿を見て、日本で“コリアン”として生まれた自分の運命を肯定的に受け入れたと思う。今回のW杯は、子どもたちに自信を与える良い機会になったのでは」
 朝鮮総聯系の在日社会は今、辛い立場に立たされている。拉致問題や核兵器問題など北朝鮮の特殊な政治体制に対する日本社会の嫌悪感は依然として根強く、一向に解決の糸口が見えない日朝関係に胸を痛めている。三世、四世といった若い世代になると、洪水のように押し寄せる北朝鮮批判報道に嫌気を感じて、“コリアン”として生まれた自分の運命を呪いたくなると、自信喪失気味に語る者たちも少なくない。
 最近は高校無償化除外問題などでさらに傷を負った。アイデンティティ・クライシスに陥っている子どもたちもいるかもしれない。そんな子どもたちにもW杯は希望と勇気を与えたわけだ。
 特筆すべきは鄭大世や安英学ら在日選手が与えた好影響が、在日社会だけに限らなかったことだ。彼らは日本社会や韓国社会にも好影響をもたらしたことだろう。
 その象徴的なシーンとなったのが、鄭大世が流した涙だ。
 試合に勝って喜ぶ嬉し涙でも、負けて流す悔し涙でもない。ブラジル代表との試合前に行なわれた国歌吹奏時に大粒の涙を流した鄭大世の姿を見たとき、多くの人々は「彼はなぜ泣いているのだろう?」と疑問を抱いたと思うが、その涙の背景にあるマイノリティとしての苦悩とそれに打ち勝つために重ねてきた努力の数々、そして夢を追いかけ続けてきた純粋な挑戦心を知ったとき、誰もがあの涙に感動を覚えたに違いない。鄭大世の涙は日本はもちろん、韓国でも大きな話題になった。
 そして、そんな彼らを誰もが応援した。日本、韓国、北朝鮮。政治的には複雑な関係にある三カ国だが、鄭大世や安英学を支持し応援する声に、国境は存在しなかった。主義や思想も存在しなかった。彼らが流した汗と涙に、誰もが熱狂したのだ。
 この事実に、私はW杯の凄さとサッカーというスポーツが持つチカラを感じずにはいられない。
 サッカーは人々の民族心や愛国心を鼓舞する特性がある。それを否定するつもりはないし、それこそがサッカーの大きな魅力であり、W杯の醍醐味だろう。だが、その一方で国境を越え、世界の人々に普遍的な感動を与えてくれるのがサッカーであり、W杯なのだ。しかも、サッカーはときに、政治ができないことをやり遂げることができる。政治を動かすことはできなくても、人々の心を動かすことができる――。
 この事実は、限りなく重く、尊い気がする。

(シン・ムグァン/スポーツライター)

東京都生まれの在日コリアン三世。近著に、鄭大世、安英学、李忠成ら在日コリアンJリーガーを描いた『祖国と母国とフットボール』(武田ランダムハウスジャパン刊)がある。


コラム・水平線INDEXに戻る



HOME

JINKEN BOOKは、(株)解放出版社が提供しています。 無断転載を禁じます 。
Copyright (C)Buraku Liberation Publishing House Co.,ltd 2001, All Rights Reserved


E-mail

(株)解放出版社
Phone:06-6581-8542(代表) Fax:06-6581-8552
東京営業所: Phone:03-5213-4771(営業) FAX:03-3230-1600