コラム・水平線

月刊誌『部落解放』の巻頭コラム「水平線」を著者のご了解を得て、転載いたします。

(2012/12/17up)




◆ 「個人の尊重」と「自由」のあいだ

〈『部落解放』2012年12月号掲載〉

金子匡良

 大学で人権を講じ始めて十年が経った。人権の授業では、まず人権とは何かというところから話を始めるのだが、その際、何人かの学生に「人権ってどんなもの?」と質問を投げかけてみることにしている。これに対して多くの学生は、「人が生きていく上で大切な権利」といった回答を返してくる。更にたたみ掛けて、「それってどんな権利?」と問いかけると、「差別されないこと」と答える学生が意外と多い。学生たちが中学や高校で受けてきた人権教育の中心が、「平等教育」であったことを窺わせる。
 もちろん平等は人権の支柱のひとつであり、人間らしい生存に不可欠の要素である。しかし、本来的にいえば、人権の根源は自由であり、自由であることこそが、人間存在の根幹的価値であると考えられてきた。その背景には、人間の尊厳性や個人の尊重という思想がある。すなわち、一人ひとりの人間の尊厳性を認め、それを尊重するがゆえに、それぞれの個人が自分の人生を自分のものとして自由に生きることを保障しなければならないと考えるのである。ここに、[個人の尊重=自由の保障=人権の保障]という人権の基本的な図式が成立する。
 ところが、学生たちにはこの図式がすっきりと頭に入らないらしく、個人を尊重することは、必ずしもその人の自由を保障することとイコールではないと思う学生が少なくないようである。個人を尊重するのであれば、むしろその人がより良い人生を送れるように導いてあげたり、場合によっては当人の自由を制限してでも、誤った選択をしないようにコントロールしてあげることが望ましいと考える学生が意外と多い。
 学生たちのこうした反応を見るたびに、かつてある知人が話してくれた洋服選びに関する日米比較を思い出す。その知人の観察によると、親が子どもに洋服を買い与える場合、アメリカでは、子どもの自由な選択を尊重する傾向が強いのに対し、日本では、親の目から見て子どもに似合うかどうかを重視するという。アメリカでは、子どもの意思が服選びの基準となり、日本では、親から見て似合っているかどうかが基準になるというわけである。どちらの親の行動も、子どもを「尊重」するがゆえの親心のなせるところであり、いずれの「尊重」が正しいと決められるものではない。しかし、[個人の尊重=自由の保障]という図式から見ると、アメリカ的な「尊重」の方が、人権思想とは親和的であるように思われる。
 日本的な「尊重」の中で育ってきた学生たちに、個人の尊重と自由の結びつきを説明するのは難しい。しかし、日本的な「尊重」は、時として子どもや高齢者や障がいを持つ人びとといった社会的な弱者の自由意思を、保護の名の下に圧迫する危険性もある。日本的な感覚や感性を踏まえつつ、どのように人権の意義を講じていけばよいか。これからも教壇の上で悩み続けていきたい。

(かねこ・まさよし/高松短期大学准教授)


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