コラム・水平線

月刊誌『部落解放』の巻頭コラム「水平線」を著者のご了解を得て、転載いたします。

(2017/5/12up)




◆ 白蘭と明蘭 ◆

〈『部落解放』2017年5月号掲載〉

辛淑玉

 叔母(父の妹)が八五歳で事切れた。
 親戚づきあいはほとんどなく、むしろ関係が悪くて、死んでも連絡してくれるなという間柄だった。
 叔母の長男から連絡を受け、白くなった遺骨に対面して、人は死んでいく生きものなのだなあと、あらためて思った。
 父は早くに両親と兄弟姉妹を亡くし、最後に残ったのが七歳下の妹だった。日本で東芝の青年学校を出て釜山で税関職員をしていた父は、朝鮮人への差別に怒りを覚え、弁護士になろうと日本の地に戻った。一七歳だった。飛び級で高校を出て、中央大学法科に入学を果たした。
 残された妹は釜山の親戚の家に預けられていたが、兄を頼って一人で日本に渡ってきた。しかし、兄は身寄りのない貧乏な苦学生であり、日本は戦争の真っ最中だった。ほどなく父にも召集令状が届く。そんななかでの妹の渡日。厄介者扱いする兄の言動は、妹からすれば絶望そのものだったろう。その非情さに、妹は日本で必死に生きていくことを決めたという。
 疎遠だった叔母に父の葬式を知らせたとき、式場で叔母は「これで本当に一人になった」と泣き崩れたという。
 父は、死ぬまで、言葉にならないほど貧しかった。その貧困は兄妹の関係をも簡単に壊した。
 叔母は老人ホームで亡くなったが、入所するときは日本名で入ったのに、事切れる間際には、自分は「明蘭だ」と言い、韓国語を話していたらしい。
 長男が「オレは韓国人なの? 日本人なの?」と母親(叔母)に問うたとき、「私もそれを教えてほしい」と応えたという話を聞かされた。時代に翻弄された一つの命の叫びがそこにはある。
 思えば、私の母方の祖母(白蘭)も、事切れる数日前からすべてが朝鮮語になっていた。そして、自分が朝鮮語を話しているという認識もないまま、死後お金に困らないようにという朝鮮の風習に従って腰紐に千円札を巻きつけ、「キムチが食べたい」と言って死んでいった。
 明治生まれの祖母、昭和一桁の叔母、ともに「○蘭」という名前がありながら、祖母は(千代に八千代にの)「千代子」、叔母は「清子」という日本名で、日本で子をなし、生き抜いた。そして共に、死んでいくときは「白蘭」と「明蘭」に戻って旅立った。
 日本人なのか韓国人なのか教えて欲しいという叫びは、何世代も続いている。それは、日本という国が、排除したいときは外国人にし、責任を負わせたいときは日本人にする、抑圧と支配の法則が今も生き続けている証拠だ。
 死ぬことでしか自己の解放がないのなら、私も、死ぬまで闘うしかないのだろう。

(シン・スゴ/人材育成コンサルタント)


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